1670年に、物理学者 Philip Myens は目と眉毛を通した診断法について記述した本をドレスデンで出版しました。眼を垂直線と水平線で四等分に分け、各部分はいくつかの身体内部器官を投影しているとされました。 P. Myens は左眼の結膜側面部分に、脾臓の病理状態を知らせる血管の赤い特性を発見し診断に活用しました。

 ブタペスト出身の医師 J. Peczliの虹彩診断に対する研究は、この分野で大きな一線を画した。彼は虹彩 診断テストを体系化し、虹彩を通した病気の診断方法を初めて確立したため、現代虹彩 学の父と呼ばれています。

 J. Peczliが11歳のある日、林の中で遊んでいるときふくろうの巣を発見し、その巣から卵一つを取り出そうとしました。親ふくろうが急に飛んできて、手に襲いかかってきました。J. Peczliがふくろうとの争いでふくろうの足を折ってしまった時、ふくろうの虹彩 に垂直に黒い線が表われることを偶然に発見しました。彼はふくろうを家に持ち帰って治療し、治療過程でふくろうの虹彩 の黒い線がだんだん無くなっていくのを発見しました。林でのこの事件は、J. Peczliの記憶に忘れることのできない出来事として刻まれました。

 その後、ビン医科大学外科病棟で働いている時にJ. Peczliは、それぞれ別 の病気で病んでいる人たちの虹彩が、それぞれ違うように変わるのを観察し始めました。彼は人体の各部分と器官が、虹彩 の特定部位と対応していることに気がついたのです。

 数年間に渡った臨床研究の結果、彼は虹彩と各器官の対応関係を表す虹彩 地図を発表しました。この研究が彼を虹彩診断学の創始者と呼ばせることになります。1880年にJ. Peczliは<自然の発見と治療技術>という本を編集し、虹彩 による病の診断についての原則を記述しています。以後、J. Peczliは虹彩と器官の状態との対応関係を探査する研究に没頭し、数年後には<虹彩 診断研究入門書>を出版しました。<眼は心の鏡だけではなく、身体の鏡でもある。>という言葉が、この本のテーマとなっています。

図2:J. Peczli 博士

 J. Peczliの研究結果は同時代の人々からは冷遇されましたが、J. Peczliの診断によって病気の完治した患者達が、彼の虹彩 地図を支持し続けました。

 ハンガリーのJ. Peczliとほぼ同じ時代、スウェーデンでは N. Liljequistが虹彩診断学の医学的な基礎を確立しました。

 彼はカトリックの神父でしたが、たくさんの信徒たちとの対話のなか、信徒達が懺悔で嘘をつく時には眼に変化が起こる、ということを発見しました。眼に対して関心を持った彼は、再度医学の勉強を始め医師となり、本格的に虹彩 に対する研究に没頭しました。

 彼は<眼による診断>(1897)という上下2巻の本で、虹彩 の形態にともなう、さまざまな新しい診断方法を発表しました。この本には虹彩 についての258枚の白黒図表と12枚のカラー図表が掲載されており、多くの人々が虹彩 診断を病気診断に活用できるようになりました。

 N. Liljequistは、虹彩の色素変化にともなう病気(疾病)に対する研究を初めて紹介し、虹彩 診断法を大きく向上させました。1893年には、<身体器官の有機物の不足現象は眼に表われやすい>ということを実験的にも証明し、左の虹彩 の小脳部分に対応する領域で、癇疾病患者には変化が表われることを発見しました。

 また、N. Liljequistは予防ワクチンと多量の医薬品が、人間の組織体に悪影響を与えているという事実に強く関心を持ちました。彼は虹彩 に予防ワクチンや医薬品の痕跡が多くの場合残っていることを発見しました。

 このような結果から彼は予防注射に対する否定的な態度をとるようになり、医学界の多くの人々と敵対するようになりました。

 このことは彼が1903年、ノーベル医学賞の最も有力な候補だったにもかかわらず、最終段階で落選した原因となっています。N. Liljequistにより表された虹彩図表は、J. Peczliの虹彩 図表よりはるかに詳細に人体の臓器と虹彩との関連を説明しています。